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書評 『温故』 第四十九号


1 米沢温故会(種村信次会長)が発行する会誌。冊子の名、温故とは中国の孔子の言行録である「論語」の中にあり、〈子曰〉、「温故而知新」(孔子いわく、故《ふる》きを温《たず》ねて新しきを知る)の意味。現在は過去なくしては存在せず、過去だけにとらわれては新しい世界は展けないが、過去を無視して新しいことを追っても失敗を招く、とは何と奥深い教えだろう。
 さて第四十九号は、令和6年度第394回から第400回までの7人の例会講話を収めている。九里学園高校の遠藤英氏は、「上杉景勝公はなぜ笑わないのか」のユニークなテーマとした。米沢藩士丸田友輔が書いた書物に、「景勝の笑顔を見たものがいない」と書かれてある。遠藤氏は、笑わない→内向的というのは本当かを検証する。先代の謙信はものすごいカリスマ性があった人物。妻帯せず、真言宗の僧侶だった。景勝は御館の乱で景虎に勝利したものの、上杉家は1年に及ぶ乱で弱体化する。上杉家をまとめて立て直す必要があった。遠藤氏は、景勝がそのために行った秘策を解説する。まず上杉謙信の神格化だった。そして景勝と兼続は、今度は景勝の神格化を図っていく。人間的な感情を見せては神らしくなくなるから、人前で笑わなくなったのではないかと述べる。米沢城の中に謙信の御堂を作り、毎日交代で二の丸の寺院に礼拝を行わせた。謙信の亡骸を甕に入れて越後から会津、そして米沢に連れてきた。このように考えると確かに遠藤氏の説に一理あるように思う。
 寺社見学では、米沢市鍛冶町にある「松高山 高国寺」を訪問した。同寺には上杉鷹山時代に、黒井堰の建設に関わった黒井半四郎の墓のほか、幕末の京都で維新の志士たちに恐れられた新撰組局長近藤勇の墓がある。近藤勇の墓がどうして、米沢にあるのか不思議だった。江戸時代末期の万延元年、桐生の近藤金太郎が織物技術者として米沢に招かれたが、この金太郎家と近藤勇の養家先が縁戚だった。商用で江戸に向かう途中、金太郎は従兄弟の勇が板橋で処刑されたことを知って、晒し首にされた首を盗み出し、途中で荼毘に付して米沢に持ち帰ったという近藤家の伝承が残されている。真実とすればものすごい歴史である。
 高橋捷夫氏は、戦後の児童文化を創り上げた人たちとして、令和6年8月3日からナセBAで開催された「高森務回顧展」を取り上げた。
 今福匡氏は、「謙信公肖像画にみる僧侶・武将の二面性」と題して講話した。同氏は上杉謙信に関する著作があるが、非常に学問的で、広範囲な史料を引用している。 青木昭博氏は、NHK大河ドラマと米沢をテーマに語った。これまでの大河ドラマでは、「赤穂浪士」、「天と地と」、「独眼竜政宗」、「元禄繚乱」、「風林火山」、「天地人」、「八重の桜」が米沢に関係したものだ。この10月には、仙台市で伊達政宗を大河ドラマにという運動が旗揚げされ、米沢市も協力するという。米沢市では、現在、上杉鷹山、三島通庸を大河ドラマにという運動が行なわれているが、それに伊達政宗が加わるとまさに三つ巴の様相となってくる。市民として、どこを応援すれば良いのか、悩ましいところである。
 温故会の会誌を見て、米沢の過去、現在、未来の歴史を牽引する団体だと改めて認識した。(評者 成澤礼夫)

発行者 米沢温故会(米沢市御廟1丁目5−30)
発行日 令和7年9月25日